過去最大の超ロング奮闘記

昔から知ってる人や、この奮闘記を昔に戻って見返したりしてる人は、なんとなくながらに私の素性とかもわかってる人はいると思うんですが。
新規ファンも増えてきたし、最近思い悩むこともあり、久々に語ります。
長くなるよ、絶対。
読む人は覚悟してください。苦笑


11年前の1998年、札幌大学に通う私は19歳の頃に、色々な流れがあり、北海道札幌にあるアクターズスクールに入学。 歌にダンスに演技などを習ってました。
21歳の頃にダンスで腰を痛め、スクールのレッスンを休むことをきっかけにスクールの仕事を手伝っていた流れのまま、アルバイトとしてスタッフへ。

大学卒業の2001年、東京大手の芸能プロダクションを受け、4000人の応募の中から1次、2次、3次面接を突破し、最終面接へ。

最後の15人まで残り、結果見事に不合格。苦笑

その後アクターズスクールのスタッフとして就職。

保険一切なしの、月給手取り12万5000円という最低賃金を割った厳しい社会生活のスタートでした。
このスクールには今やw-inds.涼平くん、龍一くん、AAAの西島くん等がレッスン生として通ってました。後に(現在クリームの)笠井琴美も入校してきます。

札幌のスクールで働いていた私は、(宮城県)仙台にあるアクターズスクールの分校に転勤。
若干23歳にして一人で仙台校をまかされることになりました。

小さい4畳ほどの事務所に小さい16畳程のレッスン場が一つ。
そこに60人弱の夢みる生徒が通っていました。


その60人の中には(現B☆Luck)浮田啓もいました。
今やHey! Say! Jump!の八乙女 光くんとかもいました。


アクターズスクールとは基本『塾』等と一緒で『月謝(レッスン料)』での経営。
60人の生徒では、その事務所の家賃、電気代、水道光熱費、レッスンを教えてくれる先生方の講師料、そして最後に私の給料12万5000円(保険なし)を算出するには『赤字』なわけです。

その建て直しをまかされた状態。

札幌の本社からの支給『折り畳みベッド』のみ。

私はそのレッスン場の片隅に折り畳みベッドを起き、仙台の生活はスタートしました。

お風呂なし。

寝ても覚めてもアクターズスクールの事務所。

休みなし。

そのうえ本社に許しをもらい、早朝(6時〜9時)はセブンイレブンで働いて(アルバイト)いました。

スタッフ一人ですから、営業、経理、レッスン管理、清掃などを全部一人でやるわけです。

そんな生活を1年続け、仙台校は生徒が130人に膨れあがり、会社としても『黒字』経営。

小さいレッスン場は手狭になり、
私が作った浮田啓を中心とした男性グループも仙台で300人程を集めるグループになり、レギュラーのラジオ番組が始まるなど、仕事もさらに忙しくなり、

私は思い切って本社に言いました。

早朝のバイトを辞めて、今まで以上にアクターズスクールに力を入れて頑張るので賃金(12万5000円)をアップしてくれませんか?と。

本社からの答えは『No』

そこで出した私の答えは 『努力を評価してくれない会社なら辞めます。』
でした。


もちろんお金がすべてじゃありません。
その時の社長からは
『頑張ったな』の一言がなかった。
その一言が欲しかった。 そういう褒めることをしない社長だったので。

ただ、このスクールで働いて学んだことは、私の人生にとって物凄く大きい部分になっていて、今では感謝しています。

今思えば残してきた生徒には悪いことをしました。

別れは辛かった。

本当に。(>_<)


その後、札幌に戻り、今までお世話になっていたアクターズスクールではない、新しく出来たばかりのアクターズスクールに入ることになりました。


まぁ見た目はセブンイレブンで働いていたのを、ローソンに乗り換えた感じ。

その時は前の会社から、ボロクソ言われました。


後々わかることなんですが、上記の理由で辞めたのに、前の会社では、岩野潰しのために『セクハラでクビ』という理由になっていて。(>_<)


この時まだ24歳。 辛かった。

そして新しく入ったスクールはもっと酷かった。

初任給9万円。保険なし。

前よりきつくなりました。苦笑

このスクールにはすでに(現在B☆Luck)佐藤大輔、(現在クリーム)福井咲良がいました。 そして(現在クリーム)笠井琴美も、スクールを移り入校してきました。

2ヶ月目から給料なし。


3ヶ月目もなし。


4、5、6か月目もなし。

スクール潰れる。


みたいな。(>_<)


まぁ潰れるというよりは、営業譲渡的な感じで新しいスクールがまた出来ました。

この給料もらえない期間は、なんとか貯金で食いつないできました。


そして新しいスクール。
初任給13万。保険なし。

この時に、一番最初に私が働いていたアクターズスクールから福田大樹がやってきて、仙台校にいた大谷翼という人間と、新しいスクールに元々いた佐藤大輔、スクールに入ろうかと見学に来た川原圭一朗、三田地大輔、そして最後に街のゲーセンでスカウトしてきた管野篤海の6人で(現在B☆Luck)『SET6』を結成。

新しいスクールの給料は、2、3か月目までは支払われていましたが、4か月目からはまた出ない状況に。

私は貯金もつきていたのでアルバイトするしかありませんでした。


ただ日中はアクターズスクールの運営があるわけです。

そこで始めたのが深夜バイト。野菜の仕分け作業。
そしてうまく時間を調節してテレフォンアポインターの仕事を始めました。

この頃はアクターズスクールやバイト先は札幌。

住んでるのは(お金ないから)実家。

実家は南幌町(札幌から車で45分程度)

家に帰っていたら寝る暇もない生活だったので、主に寝床は車中泊。(>_<)


そんな生活をしていたある日、スクールの電気がつかない、急に消えた。
と連絡が入り、確認すると電気代が何ヵ月も未納だと。
これじゃあレッスンが出来ないとなり、電気会社に電話すると、とりあえず1か月分払えばつけてあげる。と言われ、払った金額約7万。
バイトで稼いだなけなしの7万をもっていかれました。泣
辛かったなあ。

こんな常に労働基準法に違反したような賃金で、21歳からほとんど休みのないような生活で、友達と遊べるのも年に数回という状況で22歳、23歳、24歳、25歳と過ごしてきた私ですが、
頑張ってこれた理由はやっぱりそこには『夢』があったからだと思います。


様々な人が『夢』を叶えようとアクターズスクールに集まってくる。

その『夢』を叶えてあげたかった。なんとか力になってあげたかった。

逆に迷惑をかけてしまってることもあったかもしれない。

それでも一つ言えることは、常に『一生懸命』だった。

自分の人生よりも、他人の人生を応援していました。

そして札幌の大通り公園のストリートライブで3人のファンから始まった『SET6』も徐々に人気が高まりつつあった頃、先程書いた電気が『消えた』ことをきっかけに、この新しくスクールの社長も『消えました』。苦笑


いまだから『苦笑』ですが、その時は200万円もの借金を残して蒸発。


本当に辛かった。

私は残された生徒を集めて全てを話し、そして聞きました。『どうしたい?』


すると、もちろんこんなことで自分の夢を諦めたくない生徒達は『岩ちゃん(私)に、やってもらいたい』


もちろん上の人がみんな逃げて、頼る人が私しかいなかったからとは言え、この言葉は嬉しかった。

同時に一スタッフとして生徒に対し責任も感じ、
『なんとかしてあげなきゃならない』という気持ちから、その200万円の借金を背負い、次の道を探していました。


捨てる神あれば、拾う神あり。


また新たに手をあげてくれた方がいて、無事に新しいスクールが立ち上がりました。


その時点で『SET6』から大谷翼が抜けることになり、『B☆Luck』となりました。

アクターズスクールで利益を上げるのは難しいと今までの経験で理解していた私は、初めから新しい代表に、給料は5万円でいいので、アルバイトをさせてください。と頼み、深夜のセブンイレブンで週4くらいで働いていました。

アルバイト代から毎月借金の200万円を返していました。

この時の生活は、13時からスクール、22時まで。
22時から朝9時までセブンイレブン。 の繰り返しだったので睡眠時間は恐ろしくなかったです。

このスクールには後に(現在クリーム)伊藤里紗が入校してきます。


新しいスクールの代表も結局経営は苦しくなり、別の方に営業譲渡。

スクールはそのままに新しい代表がつきました。

そして『B☆Luck』の人気もあがってきた頃に、メンバーの管野篤海が東京に行きたいということで脱退。

そこで一人メンバーを補充するために入れたのが、その時スクールに通っていた(元B☆Luck)平野広司でした。


ここで一つ転機が訪れます。

この時点では『B☆Luck』は月謝を払って通うアクターズスクール生に過ぎなかったわけです。


アクターズスクールを盛り上げるためには、成功者が必要でした。

ようはそのスクールから芸能人の○○が輩出された!的な。

その一番の可能性を秘めていたのが『B☆Luck』でした。

ただ先に言ったように、所詮はスクール生。

同じ月謝をもらって通う生徒である以上、『他の生徒と贔屓出来ない』という壁がどうしてもありました。そのためこの頃はB☆Luck のイベントの衣装などは、私が個人的に自分のアルバイト代から購入していました。

ここまでの人生で他人のために使った自己費用は相当ですよ。苦笑


そんな中の『転機』とは、『B☆Luck』への『スポンサー』が現れたのです。

『B☆Luckのためにお金を出してあげるから、スクールを出て、事務所を立ち上げないか?』という話でした。

正直怪しかったし、何よりも私は『B☆Luck』だけじゃなく、その時通う生徒全てに愛情がありました。

葛藤の中、一番始めに出した答えは、スクールの代表に相談し、そのスポンサーにお願いして、B☆Luckとしてじゃなく、スクール自体にスポンサーになってもらいましょう。というものでした。

それに対してのスクールの答えは『No』


結果色々悩んだ結果、
B☆Luckが成功することで『道』が出来ることによって、次の生徒へもチャンスが広がる。
B☆Luckが『北海道から全国へ』の成功例を作らなければならない。

そう判断した私は、B☆Luckと共に、スクールを出ることになり、新しい社長(スポンサー)のもと、事務所『S.G.R(エス.ジー.アール)』を立ち上げました。

スタートは、返済しきれていなかった借金を全額返してもらったり、テレビがスタートしたり、自分達専用の音響設備、マイクを購入してもらったり、スクールを出たことにより得たものは『B☆Luck』としては、確実に『飛躍』するきっかけになったと言っても過言ではないと思います。


ただ、その社長もまた、経営が苦しくなり最後は消えてしまったのです。

350万円の借金を残して。 (>_<)


借金が増えました。苦笑

この時、岩野祐二27歳9ヵ月。


2回も社長に逃げられ、もぅ自分しか信じられなくなり、遂に事務所の社長にならざるをえなくなりました。

現『G.Pプロダクション』の誕生です。


ただ社長とは肩書きだけで、基本業務は今までと変わらないわけで、ただ現場の仕事にプラスして事務所『経営』と、代表としての『責任』がのしかかってきたわけです。



その後もゆっくりのペースではありますが確実に『B☆Luck』も成長を続け、事務所としても今後の展開を考えるとタレントが一組だと何かと不便ということで『タレントオーディション』を大々的に開催し、
そのオーディションで誕生したのが、女性グループの『クリーム』でした。


過去のスクールからも数人受けにきてくれて、『情』をかければ全員『合格』させたいところでしたが、そこはもうアクターズスクールではなく、弱小と言えども一つの芸能プロダクションとして、お金をかけて育てなければならない。

シビアに審査させて頂き、笠井琴美、福井咲良、阿部真衣、池添綾香、今林みさきの5名を合格させました。

『B☆Luck』も順風満帆に活動し、『クリーム』も誕生し、よ〜し!これからっというタイミングで、皆さんもご存知のあの事件がありました。(>_<)


2008年7月ら『B☆Luck』元メンバー平野広司の不祥事。

『B☆Luck』は活動休止になり、『クリーム』も事務所にお金がなくなってしまい、計画していたことが何にも出来ない状況に。


その時、合格したばかりの『クリーム』5名を集め、事務所の状況を説明し、『やめたければ辞退してもいい』と選択肢を与えたのですが、
その答えは5人とも『うちの事務所で、頑張りたい』と。


その当時の奮闘記でも一度書いたことがありますが、メンバーの不祥事により、正直『代表としての責任』から、自らの進退も考えました。

ただ『辞める』という選択肢にならなかった理由には、
事件に全く関係のない、罪のない『B☆Luck4人』の今後、そして結成したばかりの『クリーム』のことを考えると、
『辞めて』責任をとる形ではなく、
二度とこのようなことがないように深く反省し、代表としてさらに『責任感』を強く持ち、彼ら彼女らの『夢』を今まで以上に応援することが、応援してくれているファンの皆さんへの責任の取り方だと思い、
努力を重ねてきました。
やり方が正しいか正しくないかは置いといて、『一生懸命』に努力を続けてきました。

そんな中クリームの今林みさきは、活動して4ヵ月で脱退。
先のオーディションで一度落ちていた伊藤里紗を補欠合格として、クリームのメンバーに抜擢。

B☆Luckも抜けた穴を、仙台で共に活動していた、浮田啓を説得し、北海道に移住させ、2009年1月より現B☆Luckとして再スタートをしました。


2009年は、1月1日のB☆Luck活動再開ライブから始まり、3月のペニーレーン3daysライブ、夏には北海道完全制覇の旅、11月にはZeppSapporoでの単独ライブ、クリームも4月から『毎月1回道外イベント』を敢行。単独ライブも開催しました。

毎年のことですが、年間で私の休みは、年末含め10日なかったように思います。

友達と遊んだのは3回くらい?

人生の殆どを事務所のために、B☆Luckのために、クリームのために費やしてきていると言っても過言ではないと言い切れます。


そして今、2010年。
岩野祐二30歳。
今もなお、全力で、一生懸命に彼ら彼女らの夢に向かい努力する日々です。


そんな中、昨年末頃から、『岩野でしゃばり過ぎ』宣言を受けまして、なるべくステージ(表)には出ないように努めているつもりです。

が、普通の『社長』ならスタッフに指示して表に一切出ないということも可能なんでしょうが、私の場合は社長でありながら現場で仕事をしているんで、なかなか『一切出ない』というのは状況的に難しいわけで、現場に入れば話しかけられるし、正直人に見られるわけで。

私は昔から何度も言ってますが、鏡をみて、自分をカッコいいと思ったことはないし、ファッションセンスは全くないし、
ただ、そんな中でも一応『汚ならしい格好だけは、自分なりにしないように』という思いで、服装を考えたり、髪型も正直あんまりこだわりはなく、『短い方が楽』というくらいで、いつも行ってる美容室に『短めにおまかせで』と切ってもらっています。

まぁ短いんで、ツンツンにセットしてるわけなんですが。


最近病んでる理由はここからです。


とあるお世話になってる方の送別会があり、その方から、最後に参加した人に一言ずつというのがあり、B☆Luckメンバーも含め出席した人みんなに『ありがとう』とか『頑張ってください』とか1人ずつに言っていたんです。

そしてラストに残された私。

私だけ約10分間の説教。

『あの事件(活動休止になったのは)は、岩ちゃんのせいだよ』から始まり。
『もっと代表としてしっかりとしてもらわなきゃ困る』と。

その方には、そのことで大変なご迷惑もかけましたし、言われていることも理解出来ましたし、事件のことは監督不行き届きを深く反省し、二度と起こしてはならないことと腹をくくっているので、そこに関して強く言われることには何にも言い返す言葉はなかったのですが、、、

そのあと、その髪型は何だ?と注意され、

何か勘違いしてるんじゃないか?

お前は社長であって、タレントではないんだぞ?

モテようとしてるのか?

頭おかしいんじゃないか?
とまで言われ、

そんなんだからダメなんだと言われました。(-_-;)


私はそんなにダメなんでしょうか?(-_-;)

確かにB☆Luckだって、クリームだって、まだタレントとして成功出来てはいないかもしれない。

もぅなんだかんだでこの世界をアクターズから数えると10年、B☆Luckを結成させてから6年、プロダクションになってからは4年という月日が立ち、まだ今の状況なのは、私の力不足なのかもしれない。


でも私は私なりに精一杯、自分に出来ることをやってきたつもりです。


自分のことよりもB☆Luckやクリームのこと、アクターズスクール時代から、その時出来ることを一生懸命にやってきました。


こんなに頑張ってきても、そんなんだからダメなんだと言われる私は、この仕事に向いてないんでしょうか?

もぅ限界を感じて、辞めるべきなんでしょうか?


もぅどうしたらいいかわからない。

ただただ自分の力不足を悔やみました。


確かに社長である前に、一男性である以上『モテたい』かもしれない。

『好き』と言われたら嬉しい。『カッコいい』と言われたら嬉しい。
(個人的には『面白い』が最高の褒め言葉ですが。苦笑)
でもその『嬉しい』は普通の人間の素直な感情であって、
ただそれをファンに対してというか、仕事をしている状況で考えたことなんてないし、そんな不純な考えをして働いてると思われたことが、なんだか凄く悔しくて。。。(>_<)


そんなこと(モテたい)のために、こんなに自分の人生をかけて働けると思いますか?


何度も言ってきてますが一つだけ言えることは、
『他人の幸せが、私の幸せ』。

それはメンバーだったり、来てくれるファンの皆さんだったり、

喜ぶ顔が見たいから、一生懸命に頑張れる。


今回この長々とした奮闘記を書きたかった理由は2つあります。


1つは、その送別会でダメ出しを言われた時、その会に参加した誰もがフォローの言葉すらなく、どちらかと言うと賛同の言葉があがり、
何もそのことには触れなかったにせよ、その場にいたB☆Luckすら、もしもそのダメ出しと同じ思いを自分にもっていると考えたら、なんか頑張ってきた自分が虚しくなってきて、、、
胸が苦しくなり、、、

この気持ちを吐き出す場所を求めて、

ここに書いたのが1点。


もちろんこの奮闘記を見た上で『岩野がやっぱりダメなんだ』と思う人もいると思います。


それはしょうがないこと。自分の力不足は素直に認めます。


その上の2点目が、

やっぱりこんなことで気持ちが負けてちゃいけない!と。

ここで逃げ出したら、今まで逃げてきた上司と一緒。

やはり過去の『ほら、俺こんなに頑張ってるじゃん』っていうのが大事なんじゃなく、

これからの未来の『私のやり方で間違っていなかった!』と思わせるための『結果』を残すことが、

今現在、『岩野祐二』をバカにしている人達を見返すための一番の近道なんだと。

今はバカにされてもしょうがない。


もっともっと成長して、きっと見返してやる!


その気持ちを宣言するために書きました。


B☆Luckファンの皆さん、クリームファンの皆さん、

こんな頼りなく、情けない代表ではありますが、
これからも自分が出来る(以上)のことを目指して
努力していきますので、

どうか皆さんからの、B☆Luck、クリームを始めとしたG.Pプロダクションのタレント達への暖かい応援のほど、よろしくお願いいたします。m(__)m


2010.3.23

G.Pプロダクション
代表 岩野祐二

1009。